心を置いてゆくところ。

誰にも話せないけれど誰かに届いてほしい独り言です。

平穏

久しぶりの平穏を感じている。

 

昨日は2時過ぎまで打ち込みをして寝て、11時半頃に起きてバナナだけ食べてまた打ち込みをした。14時のレッスンに間に合わせるため。

レッスンが終わったら15時半頃に素麺を食べた。ちょっとお腹いっぱい食べすぎた。

そのあと散歩にでも行こう、というか、運動不足だし家に篭りっぱなしの日々だから散歩にでも行った方がいい気が強くしたが、とても眠くて乗り気にならないな…と躊躇していたら、

薄着だと少し肌寒いくらいのほどよい気温の中でやんわりと風が部屋に漂い、右の窓の外から虫の声や車の音、どこかの空調が響かせる低音、廊下側の左からはカラスの声がサラウンドで聴こえて来ることに意識が向いてそれがあまりに心地よかったので、散歩をやめてデスクチェアに腰掛けて目を閉じることにした。

以前も感じたことがあるけど、この世でいちばん耳が心地良い音は、こういう自然と生活が混ざり合った、繊細で奥行きのあるサウンドだな、と思う。

 

しばらくそうしていたら、本当にとても安らいだような感覚になった。最近はずっと疲れているせいか自然のある場所に住みたいとか、そういう場所に長期で旅行に行きたい欲が高まっているけど、わざわざ遠くの海や山に行かなくても、こうしてリラックスを得られることはできるのかもしれない、と思った。

デスクチェアは座り心地がいいけど、背もたれに体を完全に預けるには高さが足りなくて首が支えられないので、解決策を考えようと思った。

 

兄が横浜から帰省してきている。家族が4人揃った。元気そうで良かった。なんとなくだか、仕事も順調そうだ。ただ睡眠時間は足りてなさそう。

 

両親も元気で病気もしていないし、テレビを見てよく笑っている。こんなに平穏な日々ってない、と心から思う。何より不安定で心配なのは自分の将来のことだけだ、と気づく。

 

このところ不安感が大きくなっていたが、いまこうしてスッと平穏な気持ちになっているから、スケジュール的にも明日あたり生理が来るかもしれない。

 

存在の肯定

最近仕事がうまく捌けなくて、

自己肯定感が爆下がりしていたり、

「周りの人たちにとって自分は存在価値がないのではないか」と不安感に襲われたりしていた。

 

でも思うに、

仕事が出来る人はストレートに仕事のアウトプットで組織に貢献しているけど、逆に仕事が出来ない所謂ポンコツに見えるような人でも、「あの子の方が大変そうだ」「あの人に比べたら自分はずっとましだ」「あの人が苦労してるところを助けてあげた」という、ある意味で周囲に安心感や有能感を感じさせていたり、「人を助ける、フォローする」という、人間が「自分の存在価値を感じる」ための絶好の機会を提供している、という点では存在価値は十分にあるのだと思う。

 

だから、どっちだって良いのだ。

出来ても、出来なくても、向いてても向いてなくても、人が、そこに存在する価値はあるんだと思う。人は、そこにいるだけで、きっと本質的には、誰かの役に立っている。

 

ただ、もしそれであまりに周囲から冷たくされたり評価されなくてしんどい気持ちになるのなら、それはまた別の問題で、「自分にとってこの場所は、このまま存在し続ける価値があるのかどうか」という基準で、進退の判断をすれば良いのだと思う。

 

少なくとも組織からはっきりと

あなたの存在はいりません、いなくなってください、と告げられるまでは、

 

「周りにとって自分は」ではなく

「自分にとってこの場所は」という目線で、これからのこと、居場所のことを考えていれば良いのだと思った。

 

少なくとも、仕事がうまくは行ってなくても、周りから「大変そうだからこうしようか?」と色々と提案してもらっているうちは、あなたはここに居ていいですよ、大変な思いをしなくてもここに居られるように変えていきましょう、と思ってもらえてるのだから(少なくとも表向きは)、まだまだ、存在価値を疑う必要なんてない。

 

成功したら「なんて賢くて有能なんだろう…こんなに可愛いのに仕事まで出来るなんて(笑)」と惚れ惚れしながら、失敗したら「やってしまったな…でもこれはまた身を呈して、周りの人たちにフォローさせてあげる機会、有能感を与える機会を提供してしまったな…最高か(笑)」と胸の内で微笑んでいればよいし、「今日も昨日も色んな意味で役に立っている自分」を誇って、堂々と、にこにこと、飄々と、存在し続ければ良いんだと思う。

 

そんなかんじで、

明日も行ってきます。

書きちらし

冷静に考えれば

出来ることも良いところも色々あるはずの自分、なんだけど

突然の(というより積み重ねによってコップが溢れ出すかんじなのか)無力感や無価値観とそれによる不安にがんじがらめになって体が動かなくなって、寝ることさえ出来なくなる、ときがある。

 

焼肉が食べたい。1人焼肉に行きたい。本当は大好きな誰かと「美味しいね〜」なんて言って分かち合いたいけど、結局なんだかんだ気を使って疲れてしまいそうだから、イマジナリーフレンドを連れていきたい。見えたことなんてないけど。

 

こちらが気を使わなくても、自分は自分で楽しく過ごしてくれる可愛らしい男の子とかが居たらいいな、なんて思ったりして。

 

いま書きながら思ったけど、「気を使う」にはまぁ様々なタイプのそれがあるんだろうけど、私がコミュニケーションで主に気にするのは2つあって、

1つは、私が失礼なことをしたり私の優しさ不足で相手が不快な気持ちになったり機嫌を損なわないための気遣い、もう1つは私自身が機嫌悪そうにする(実際どうあれ、相手からそう見えるという意味)ことで相手に「どうしたんだろう」と気にさせてしまったり「そんなにつまらなそうにしている人と一緒にいても楽しくない」と不愉快な思いさせてしまわないための、「自分が機嫌良く見えるように振る舞う」気遣い、である。

 

どちらも目的としては相手の機嫌を損なわない、不愉快な思いをさせない、ということなんだけど、なんか…あれだな、

 

私は?????

 

相手の気分がどうのこうの言う前に、私が、その場で心から楽しいのか、機嫌よくなれるのか、という視点がまったくないな、と今気付いて自分で、これはだめだな…と思った。

 

かわいそうな自分。

いつもそうだね。

自分のことは、あと回しで。後回しというか、「気遣うべきこと」の項目に入ってすらなかったような気がする。

 

本当にごめんね。また反省して、やり直すよ。

 

 

" 私が "

楽しく、笑っていることを心から喜んでくれる人を探すよ。

 

自分に置き換えて考えてみてもさ、

隣にいる人が、本当は楽しんでるかどうかも分からずたまにチラッと不安げだったり疲れてそうだったりするのに、「とにかく自己犠牲であなたに尽くす人が好きでしょ?」精神でこちらの機嫌ばかり伺ってくる人や不自然にずーっとニコニコな人だったら不気味だもんね(笑)

お店でごはん食べてる何時間の間とか、人間そんなずっと楽しいことないでしょ(笑)たまに無表情になったり、なんか考えてて間がある人の方が自然だもんな。。

 

そうだよ、逆に、いつも落ち着いてるのに急に顔を覗き込んでちょっと笑って「◯◯のそういうとこ好きだよ」とか言われたら、ぜんぜんそっちのが吸い込まれるもんな…。何を言ってるんだ?でもそういうことです。

 

そしてさ、上に書いたみたいな、今まで私がやってきてしまったような、謎に猛烈な接待精神で隣にいる人、私みたいないわゆるHSPとか優しい人からしたら「不気味。目的が謎。自信なさそうで心配。てかめっちゃこっちを楽しませてくれようとするけど、この人はいま楽しいのかな?大丈夫かな?なんか気を使わせるものが私にあるのかな?ごめんね。なんかお互い本心見せづらい相性なのかな?こっちも落ち着かないや。」ってなって、

 

逆にそれを「一緒にいて心地良いな」って思う人って、つまり「相手が自然に楽しそうか、自分に気を使いすぎてないかなんて気にも留めない」人、不自然に接待されていることに気付かない人、というか自分だけが沢山気を使われてれば良いや、って思うタイプ、つまりわりと自己中が過ぎるというか、言葉を選ばず言うとやばい人じゃない??💦

 

もっと言っちゃえば「私の楽しいことや好きなことや好む雰囲気をさがし当てて喜ばせることに楽しさを見出したい」「それが自分も楽しい」みたいな可愛げのあるタイプ(笑)、つまり自分が喜びたいだけじゃなくて、互いに喜ばせ合いたいタイプは、その楽しさをはじめっから取り上げられているわけだから、ちょっと違うかな?ってなってアプローチしてくれなさそうだよね。。

 

今まで私を1番にしない人やモラハラっぽい人に複数引っかかってきた(わりかし受け身だから正確に言うと"寄ってきた"かな)のは、そういう振る舞いをしていたのも要因としてあるのかな、って思った。

 

慣れや習慣はすぐ抜け出せるものじゃないから、少しずつになるかもしれないけど、人と話す時には意識して練習して、自然な自分を見せられるようになりたい。それが素敵な友だちやパートナーに出会う大事な、大きな一歩のような気がする。

 

目標は、「誰と居ても、疲れるほどは気を使わない自分」

 

で、今までの態度がだめだったなと分かったけど、じゃあどんな態度が理想なのか?これは具体的に考えないといけない。

 

ドラマ観て仕草やセリフをメモしたり、こんな風になりたい!って人を観察して、こういうところかな?って思った部分を書き出して真似してみようかな。

 

自分の否定にはならないようにしないと。これまでが自分のありのままを否定していたようなものだから、それは大丈夫かな…。

 

書きちらし、ってはじめたけど

なんかまとまったわ。

いなかったことに

死にたい、というより

はじめから居なかったことにしてほしい

という気持ち

 

自分の存在がただただ迷惑だと思える。

会社にはなんの貢献もしていないし

評価もされていない

むしろ侮辱的な扱いを受けた

 

家族には心配をかけるばかり

生きているだけでお金もかかっていて

生活費のほとんどは負担してもらっているし

家事もしてもらって

最近は目が見えにくくなっているとか

膝が痛いと言うのに

私は車の運転ひとつ出来ず

 

わたしが居なくなったら悲しむだろうけど

居ても迷惑なだけで

こんななら居ない方がきっとよくて

だから

 

はじめから居なかったことになりたい

 

人生がうまくいかない

居場所が見つからない

しんどい

 

3年先、半年先はもちろん

明日が来るのでさえ不安だ

 

寝てしまえばすぐに明日がくるから

夜更かしして

明日が来るのを少しでも

先延ばしにしているような気分になって

体調はどんどん狂っていって

なんだかメンタルもおかしくなってきて

 

しんどい

どうしたら良いか分からない

 

誰かに

何かに

助けてほしい

 

 

ピアノ

鍵盤の前に座って、ピアノを弾く。

好きなコードとか、曲の練習とか。

そうしてると、なぜか

ピアノや音楽に関係する、いままでの

良くない記憶ばかり

どんどん頭の中に浮かんできて

つらい、悔しい、悲しい気持ちになる。 

 

昨日あたりから。

なんでだろう。

 

パフォーマンスレッスンで

同じクラスの私じゃない子を見て

他のクラスの先生が

「すごいですね」って言ってたこと。

 

同じクラスだった子が

ディズニーソングのレコーディングに

選抜されて参加していたこと

 

レッスンのとき、私は

いつも必死で泣きたい気持ちだけれど

先生に、どうでも良さそうな

「あまり練習してないなら何言ってもな」

みたいなリアクションをされること

 

ピアノを人前で弾いて「今日は良かったな」と

思ったことなんて一度もないこと

 

いつも恥ずかしくて後悔して

無かったことにしてほしい気持ちになること

 

ピアノの弾き語りから

仕事が広がったことなんてないこと

 

リズム感がないから

誰も私と演奏したいなんて思わないだろう

って思うこと

 

そんなんばっかりで

音楽が向いてる証拠なんて見当たらないのに

どうしてこんなに執着しているんだろう

ってこと

 

私は、いつ辞めるんだろう

 

そんなことばっかり浮かんで

胸のあたりがモヤモヤする

 

ピアノを前にすると

嫌な気持ちばっかり思い出してしまう

 

なんで?

って、ピアノを見ながら思った夜

 

 

2番目だから?

2番目でいれば、
可哀想な人でいれば、
ハンデを背負っていれば、
自由に、自分らしく居られて
ラクだから

わたしは自分で2番目を選んでいる、
そう、思っていた。

でも
今日は

2番目だから
言いたいことが言えなかった

いなくても良い存在だから
相手の都合に合わなければ
かんたんに
すぐ

じゃあ、もういらない。

って言われるんじゃないか、と思うから。

だって私は、
わたしにとっては、

あなたは
2番目じゃない

1番好きな人。

いらない、って言われたら
いやだよ。怖いよ。
離れたくないよ。


でもね、
思い出してみたら、

2番目じゃなくても、
わたしが相手にとって
1番好きな人、というときでも、

それはそれで、
言いたいことが言えなかった。

パートナーとして
真剣に考えているからこそ、

合わないところがあれば、

やっぱり、君はいらない。

って言われるんじゃないか、って
思っているから。

こわくて少しずつしか、
思ったこと、
考えていること、
したいこと、

を見せていけなかった。

私は見放されるかも、と
相手を信頼していないから?

それとも

私も、あなたも、
誰もが、
自分の理想や、ゆずれないところを
持っていて良いのだから

合わないと思えば、

ごめんなさい、
あなたはいりません、って

はっきり言って良いのだから。

それは、あなたには価値がない、と
言っているのとは、また少し違って、
行き着く結果は、同じだとしても、
きっと、みんな、
自分を大切にしているだけ、なんだ

別れが辛くても、
相手の気持ちを優先できなくても、
それより一番に
大切にしなければならないのは、

自分が心地よくないこと。
自分が傷付くこと。
その環境に身を置き続けること。

それらを、
きっぱりと、
拒否すること。


別れを恐れすぎていては、

パートナー関係なんて、
始めることが出来ないのかもしれない。

別れを突きつけられる覚悟、
そして
自分から別れを突きつける覚悟、
そして
別れの悲しさ、寂しさ、辛さを
受け止める覚悟をもって
「ふたり」を始めてみなければ、

本当に心の通い合う関係なんて、
生まれないのかもしれない。

それが、パートナーシップにおける
つぎの扉をあける 勇気
なのかもしれない。

ずるい

私はずるいんじゃないかと思った

それが良いか悪いかの判断をしたいわけじゃない

最近は 彼にとって2番目、本気じゃない

立ち位置になることが多くて
もう(ほぼ)連続3人目

彼氏が出来ても
私をひどく傷つけることばかりをする

悲しいのに、
もっと大切にされたいのに、
愛されたいのに、
なんでこのパターンばっかり、と思ってた
バカにされている気がした
隠されもせず はっきり告げられることが
お前はその程度の価値の女だ、という宣告
屈辱的な仕打ちだと思った

潜在意識、とか心屋さんの文章を
ずっと読んできて

私が自分を、
愛される価値のないひと
と、思っているから、
周りが「価値のないわたし」を
はっきり見せてくれているんだろうか?

または
私に100%惚れ込んでいて
いつでも変わらず優しくて
何でも望みを聞いてくれそうな、
言い方は悪いけれど
簡単な男、には全く魅力を感じないから、

なかなか一筋縄ではいかなそうな
難関コースを好んで選択しているのか

なんて思ってみたりして。

でもさ、
そんなことないのに、
私はもっと大切に、
丁寧に扱われる人なのに。
だから、悲しい仕打ちを受ける度に
ひどく違和感や反発を覚えるのに。
なんのせいなのか、分からなかった。


にしても、
もう「2番目にするね」メンズが
ここのところ3人目だ。
これはもう、自分で招いている展開だとしか思えない。
どうしてだろう、と考えていた。

それで今日
ふと、浮かんだことがある

その方が、「ラク」だから?

だって考えてみれば、
2番目の女、
という立ち位置に居る内は、


「私は好きな人から、一番に愛されていない」「大切にされていない」「優しくされない」「傷ついている・可哀想な人」で、

「彼は私をぞんざいに扱う、ひどいことをしている人」「私を悲しませている人」「私に対して貸しがある人」

という状態を、常にキープしていられる。(これも主観なんだろうけど、私の中では確かに強くある感覚)

これってある意味、
スタート地点から私は彼に対しての行動に責任や義務、罪悪感の面で「ハンデ」をもらっている、状況と思える。

たとえば、
メールを返さなかったり、そっけない態度をとったり、会うのを面倒がったり、その他色んな場面で、気分で態度が変わったり、理由も話さず彼に尽くさなかったりすること、そのことで「嫌われたかな?」「俺何かしたかな?」と不安にさせたり悲しませたり、つまり相手を「雑に扱う」こと。

そういうことを、お互いにフィフティー・フィフティーの関係、貸しもハンデもない関係の場合、

特に出会ってすぐのまだ信頼関係が浅い内に、

もし自分が彼に対してやってしまおうものなら、私の方が彼を悲しませている、傷つけて、不安にさせている、ひどい仕打ちをしている、という罪悪感を感じて、とてもじゃないけど、平気ではいられないと思う。
できないと思う。
というかしないと思う。

でも、もし「私はいま、というかはじめから、常に、彼に悲しまされている」と思っていたら、「私が少しくらい冷たくしても、不安にさせても、それでおあいこでしょ。そのくらい許されるべき」「でも彼は、すでに私を傷つけている、私に借りがあるのだから、彼は私に優しくすべき。尽くしてくれるべき。私がそれに対して必要以上に感謝したり、等価でお返しする必要なんてない。」という、

わたしは彼より優しくしなくていい
真面目に向き合わなくていい
そのくらいで平等

という、ふたりの間での誠実さや優しさのバランスにおいて、ハンデを獲得しているような気持ちになる。

冷たくした?
傷つけたかも?
ひどいこと言った?

仕方ないじゃない、私の方が普段もっと傷つけられているんだから。これじゃまだ優しすぎる、バランスとれてないくらい。私の方が、いつも、もっともっと、悲しいの。

だからこのくらい気分屋でいるくらい、許してよ。自分を優先、がまんしないで付き合っていくこと、相手の心に寄り添わないことを、責められる理由はないでしょ?

という感じ。

で、書いていて気付いたことは、

私が我慢しないで、
気を遣わないで、
つまり、
のびのびと、自分らしく、楽に
付き合っていくのには、

それが許されるには、

「私は彼に悲しい思いをさせられている」という状況が必要だったのかもしれない。ということ。(!!)

自分で、あーそうだな、って附に落ちて、
目から鱗だ…。

「君を2番にするよ」と言ってくれる人は、偶然に連続して現れた通り魔のような人でなし達(笑)ではなくて、

私が恋愛しながらものびのびと、自分らしくいられるために、私のところに来てくれた、理想を叶えてくれる白馬の王子様みたいな人たちなんだ。


きっと私の潜在意識の中では、
私は自然体でいるとひどい性格だから、誠意や優しさを与えてくれる相手にも同じように愛情を与え返せなくて、それは人間関係においては重い罪であり、その罪を犯さないように、つまり彼を傷つけないように、気を遣ってがまんして付き合っていくくらいなら、たとえ一番に愛されなくても、最初から「優しくしなくていいハンデ」を貰って気楽に、気分のままに付き合っていけるほうが良い!と判断していたんだろう。


わたしはきっと
愛されたい、よりも
自由でいたい、 わがままでいたい
を大切にしていたんだ。

それで、
自由で、わがままでいるには、
可哀想な私でなければいけない

という思い込みがあった

そしたら、出会った魅力的な人たちが
ちゃんと みんなして
可哀想な私、にしてくれた(笑)

なんか、笑えてきた。
何度も笑えた。
爆笑(笑)

よく心屋さんが、
「パッカーン(生きづらい現実を作り出していた自分の考え方の原因を見つけて、一気に人生の視界が開けること)」すると、人は笑います、爆笑します、と書いていたけれど、これがパッカーン、なのかもしれない!

(無意識だけど)自分から
可哀想な私、にしてもらって、
なんでこんなに私は可哀想なの!
と悲しんでいる

まさに自作自演の喜劇。


可哀想じゃないのに
自由で、わがままでいるなんて
相手とバランスをとらないなんて
罪深くて、堪えられない

心屋さんでも何度も出てきたキーワード「罪悪感」
これが大きな理由だったと感じた


なんかそう思ったら、
私が潜在意識から望んでいる日々がちゃんと実現している、
世界は驚くほどに優しい仕組みだ、
みんなありがとう、って

気持ちになってきた。

すごいなぁ。。

思いもよらなかったけど、
今夜まで私の中で、

・可哀想(≒愛されてない)⇔ わがまま
・愛されている ⇔ がまん

っていう2つのフィールドがあって、其々のフィールドを越えて現象が往き来することはない(たとえば、可哀想ならわがままで良いからがまんすることはないし、愛されるのはがまんしていることがあるからで、わがままにしていれば愛されることはない、みたいな。)

という固まった感覚があった。
それを、ほどいて溶かしていこうと思った。

わがままでも、愛されていい
わがままでも、愛されていい

我慢しなくても、愛されていい
我慢しなくても、愛されていい

相手と同じだけ、与え返さなくていい
貰っているうちに、与えたくなるから

自分のペースでいい