ずるい
私はずるいんじゃないかと思った
それが良いか悪いかの判断をしたいわけじゃない
最近は 彼にとって2番目、本気じゃない
立ち位置になることが多くて
もう(ほぼ)連続3人目
彼氏が出来ても
私をひどく傷つけることばかりをする
悲しいのに、
もっと大切にされたいのに、
愛されたいのに、
なんでこのパターンばっかり、と思ってた
バカにされている気がした
隠されもせず はっきり告げられることが
お前はその程度の価値の女だ、という宣告
屈辱的な仕打ちだと思った
潜在意識、とか心屋さんの文章を
ずっと読んできて
私が自分を、
愛される価値のないひと
と、思っているから、
周りが「価値のないわたし」を
はっきり見せてくれているんだろうか?
または
私に100%惚れ込んでいて
いつでも変わらず優しくて
何でも望みを聞いてくれそうな、
言い方は悪いけれど
簡単な男、には全く魅力を感じないから、
なかなか一筋縄ではいかなそうな
難関コースを好んで選択しているのか
なんて思ってみたりして。
でもさ、
そんなことないのに、
私はもっと大切に、
丁寧に扱われる人なのに。
だから、悲しい仕打ちを受ける度に
ひどく違和感や反発を覚えるのに。
なんのせいなのか、分からなかった。
にしても、
もう「2番目にするね」メンズが
ここのところ3人目だ。
これはもう、自分で招いている展開だとしか思えない。
どうしてだろう、と考えていた。
それで今日
ふと、浮かんだことがある
その方が、「ラク」だから?
だって考えてみれば、
2番目の女、
という立ち位置に居る内は、
「私は好きな人から、一番に愛されていない」「大切にされていない」「優しくされない」「傷ついている・可哀想な人」で、
「彼は私をぞんざいに扱う、ひどいことをしている人」「私を悲しませている人」「私に対して貸しがある人」
という状態を、常にキープしていられる。(これも主観なんだろうけど、私の中では確かに強くある感覚)
これってある意味、
スタート地点から私は彼に対しての行動に責任や義務、罪悪感の面で「ハンデ」をもらっている、状況と思える。
たとえば、
メールを返さなかったり、そっけない態度をとったり、会うのを面倒がったり、その他色んな場面で、気分で態度が変わったり、理由も話さず彼に尽くさなかったりすること、そのことで「嫌われたかな?」「俺何かしたかな?」と不安にさせたり悲しませたり、つまり相手を「雑に扱う」こと。
そういうことを、お互いにフィフティー・フィフティーの関係、貸しもハンデもない関係の場合、
特に出会ってすぐのまだ信頼関係が浅い内に、
もし自分が彼に対してやってしまおうものなら、私の方が彼を悲しませている、傷つけて、不安にさせている、ひどい仕打ちをしている、という罪悪感を感じて、とてもじゃないけど、平気ではいられないと思う。
できないと思う。
というかしないと思う。
でも、もし「私はいま、というかはじめから、常に、彼に悲しまされている」と思っていたら、「私が少しくらい冷たくしても、不安にさせても、それでおあいこでしょ。そのくらい許されるべき」「でも彼は、すでに私を傷つけている、私に借りがあるのだから、彼は私に優しくすべき。尽くしてくれるべき。私がそれに対して必要以上に感謝したり、等価でお返しする必要なんてない。」という、
わたしは彼より優しくしなくていい
真面目に向き合わなくていい
そのくらいで平等
という、ふたりの間での誠実さや優しさのバランスにおいて、ハンデを獲得しているような気持ちになる。
冷たくした?
傷つけたかも?
ひどいこと言った?
仕方ないじゃない、私の方が普段もっと傷つけられているんだから。これじゃまだ優しすぎる、バランスとれてないくらい。私の方が、いつも、もっともっと、悲しいの。
だからこのくらい気分屋でいるくらい、許してよ。自分を優先、がまんしないで付き合っていくこと、相手の心に寄り添わないことを、責められる理由はないでしょ?
という感じ。
で、書いていて気付いたことは、
私が我慢しないで、
気を遣わないで、
つまり、
のびのびと、自分らしく、楽に
付き合っていくのには、
それが許されるには、
「私は彼に悲しい思いをさせられている」という状況が必要だったのかもしれない。ということ。(!!)
自分で、あーそうだな、って附に落ちて、
目から鱗だ…。
「君を2番にするよ」と言ってくれる人は、偶然に連続して現れた通り魔のような人でなし達(笑)ではなくて、
私が恋愛しながらものびのびと、自分らしくいられるために、私のところに来てくれた、理想を叶えてくれる白馬の王子様みたいな人たちなんだ。
きっと私の潜在意識の中では、
私は自然体でいるとひどい性格だから、誠意や優しさを与えてくれる相手にも同じように愛情を与え返せなくて、それは人間関係においては重い罪であり、その罪を犯さないように、つまり彼を傷つけないように、気を遣ってがまんして付き合っていくくらいなら、たとえ一番に愛されなくても、最初から「優しくしなくていいハンデ」を貰って気楽に、気分のままに付き合っていけるほうが良い!と判断していたんだろう。
わたしはきっと
愛されたい、よりも
自由でいたい、 わがままでいたい
を大切にしていたんだ。
それで、
自由で、わがままでいるには、
可哀想な私でなければいけない
という思い込みがあった
そしたら、出会った魅力的な人たちが
ちゃんと みんなして
可哀想な私、にしてくれた(笑)
なんか、笑えてきた。
何度も笑えた。
爆笑(笑)
よく心屋さんが、
「パッカーン(生きづらい現実を作り出していた自分の考え方の原因を見つけて、一気に人生の視界が開けること)」すると、人は笑います、爆笑します、と書いていたけれど、これがパッカーン、なのかもしれない!
(無意識だけど)自分から
可哀想な私、にしてもらって、
なんでこんなに私は可哀想なの!
と悲しんでいる
まさに自作自演の喜劇。
可哀想じゃないのに
自由で、わがままでいるなんて
相手とバランスをとらないなんて
罪深くて、堪えられない
心屋さんでも何度も出てきたキーワード「罪悪感」
これが大きな理由だったと感じた
なんかそう思ったら、
私が潜在意識から望んでいる日々がちゃんと実現している、
世界は驚くほどに優しい仕組みだ、
みんなありがとう、って
気持ちになってきた。
すごいなぁ。。
思いもよらなかったけど、
今夜まで私の中で、
・可哀想(≒愛されてない)⇔ わがまま
・愛されている ⇔ がまん
っていう2つのフィールドがあって、其々のフィールドを越えて現象が往き来することはない(たとえば、可哀想ならわがままで良いからがまんすることはないし、愛されるのはがまんしていることがあるからで、わがままにしていれば愛されることはない、みたいな。)
という固まった感覚があった。
それを、ほどいて溶かしていこうと思った。
わがままでも、愛されていい
わがままでも、愛されていい
我慢しなくても、愛されていい
我慢しなくても、愛されていい
相手と同じだけ、与え返さなくていい
貰っているうちに、与えたくなるから
自分のペースでいい